『ギャラクシー街道』という映画がいかに駄作か。
この点については至る所で書かれているので新しい見地から、というのは難しいが、書かねば俺のやるせない感情が収まらない。そして、三谷幸喜に憧れ芝居を始めた劇団の人間として、シチュエーションコメディの脚本に関わるものとして、書き残しておく必要がある。
各所で指摘されている通り、『ギャラクシー街道』は「笑えない」。個人的な感想としてもそうだし、実際映画館も静かだったし、レビューサイトでもそういった感想が目につく。
その理由は。
実は、俺が分析するまでもなく、三谷幸喜自身が書いている。
「不自然なんだよ!」
「まるで笑わせるためだけに出てきたみたいじゃないか!」
だってさ、三谷先生。
これは三谷幸喜『笑いの大学』に出てくるセリフだ。
一応補足しておくと『笑いの大学』は、喜劇作家と検閲官が「検閲」を通して「完璧な喜劇(コメディ)を創り上げ」るという傑作だ。そして、ここでいう作中で2人が産みだす「完璧な喜劇」とは、場当たり的なギャグやおかしな言動ではなく、自然な動機と感情(一応スジが通るレベルではあるが)に裏打ちされたコメディ、つまり「シチュエーションコメディ」を指している。それが小劇場時代からの三谷幸喜のスタイルだし、あの『ラヂオの時間』も『十二人の優しい日本人』も紛れもなくシチュエーションコメディであり、同時に素晴らしい喜劇である。
では『ギャラクシー街道』は、と考えるまでもなく、「不自然」も「笑わせるためだけ」も、そんなキャラクターもシーンも枚挙にいとまがない。多少人間的な生理を持っていたかな、と思うのは小栗旬まわりくらいだ。ちなみに劇場でも彼のシーンは少しウケていた。
ヘンな格好(といってもただ鼻が高いとかボンテージ着てるとか奇抜な髪型とか、その程度だが)したキャラクターがただヘンなこと(大抵顔芸)するだけ。そこに必然性も条件設定もなく、なんの脈絡もなくヘンな顔しているだけである。
これを観たら向坂さん(『笑いの大学』の検閲官)がなんて言うか。
だから『ギャラクシー街道』はシチュエーションコメディでは絶対にないし、だから三谷幸喜の得意な型でもない。だから今までの三谷幸喜作品のファンが低評価なのは当たり前だ。『ラヂオの時間』の収束感も充足感も、この作品には皆無だ。
ここで反論。
「シチュエーションコメディじゃない、とか言うけど実際ほとんどワンシチュエーションだし、時間経過も一本道じゃん。それに、確かに笑わせ方は今までと違うかも知れないけど、それは三谷幸喜が新しいことにチャレンジした、ということで評価していいんじゃないの?」
「舞台は宇宙なんでしょ?SFなんでしょ?だったら登場人物がおかしくてもいいんじゃない?地球人から見たら価値観や行動が狂っていても、宇宙人なんだから」
まず、シチュエーションコメディかどうか論争。『ギャラクシー街道』には、シチュエーションコメディに必要なある要素が、決定的に欠けている。
「ルール」だ。
場を支配する、「これをやらなくてはいけない」「これをやってはいけない」という条件。このルールが崩れそうで崩れない、ギリギリのチキンレースに奔走される人間を楽しむのが、シチュエーションコメディだ。そして今作にはそのルールがない。条理がないからどれだけ不条理なことをされてもボケにならない。走るべき物語のレールがないから、脱線のしようがない。そのルール、つまり「状況(シチュエーション)」が「道具立て」られた中でそれを「繕い」、サバイヴしていくコメディが、シチュエーションコメディなのだ。
いや、正確には一応だがそのルールらしきものはか弱いながら設定はされている。主人公こ香取慎吾(地球人)の視点がそれだ。先の話と関わるのでここでは簡単に済ますが、しかし彼はレールにはなれない。乗れないからだ。作品世界の「常識」として共有するには、香取慎吾の視点はあまりに差別的で歪んでいる。そんな共有できないものは、ルールとして機能しないのだ。
『ギャラクシー街道』が、「なにをしたら勝ち」で「なにをしたら負け」なのか説明できるだろうか?俺にはできない。散発的に起こる事件が一部屋で同時に「起こっているだけ」だ。
だからワンシチュエーションであっても『ギャラクシー街道』はシチュエーションコメディでは、ない。今作の宣伝記事で「三谷幸喜得意のシチュエーションコメディ」とか書いていたテキストが散見されるが、正直もう少し勉強して欲しい。
また、「宇宙に地球の常識は通じない」という点について。
これは確かにそうだ。作中でもこのことについては言及される。取って付けたようにしか使われないが、本作のテーマでとある。
じゃあ反駁。先程の繰り返しになるが、「宇宙の常識」は提示されていたか?梶原善が透明になったり舌が伸びたり脱皮したり大竹しのぶが放電したり遠藤憲一が両性具有でボンテージだったり(嗚呼書いていて悲しくなってくる)、そういう「設定」に、なにか意味があったか?それが世界観の説明や登場人物の性格付けやもっと単純に物語の役割(ロール)として、「設定」されていたか?ノーだ。
本作をSFと言ったライターにも、猛省を促したい。
三谷幸喜はSF的ガジェットを使う上で一番やっちゃいけないことをやっている。
物語の骨組となる設定を「宇宙だから」「SFだから」で済ますのはNGだ。そういう作品は十中八九駄作である。
しかも、動機や感情は狂ってるくせに、諸々の設定はありきたりで没個性そのものである。どうせ「宇宙だから」で済ませるならもっとイカれた能力を持たせればいいのだ。もっとわけわかんない行動を取ればいいのだ。こちらが理解できないくせに大した事件も起こらないので、ただただ退屈である。筋が追えない物語の中にも名作は存在する。しかしそれは、それ以上にインパクトのある展開やシーンが表現されるから、価値があるのだ。狂っているなら、狂っているなりのナニかを観せるべきだ。
この「ルールが理解不能」にも関わらず「イベントが地味」、これが『ギャラクシー街道』の最大の欠陥である。
なぜこんなことが起こってしまったのか。
三谷幸喜は今作についてインタビューでこう言っている。
「登場人物はリアルで現実的。・・・(舞台は)新宿でもいいんじゃないかってくらいのお話は目指しました」
新宿をなんだと思っているのだろうか、ということは置いておいて、つまり起こるイベントは「リアルで現実的(だと三谷幸喜が思っていること)」の範疇で、しかしその動機や理由は「宇宙だから」説明されないのである。なんというダブルスタンダード。
そんなもの、ついて行けるわけがない。物語の前程も人間関係も飲み込めないまま、その疑問を「宇宙だから」で片付けられてキチガイじみた言動を見せられ、かと言って彼らの起こす問題は宇宙規模でなくこじんまりとした「新宿」サイズ。この捻れが、『ギャラクシー街道』をダメにしたのである。こんな基本的な創作上の欠点に、誰も気がつかなかったのだろうか?配慮がまるでない。
そう、配慮がない。気を使っていない。
そして、それが俺が一番怒りを感じている部分だ。
目に余る差別的描写と、敬意を欠いた適当なパロディ。「ちょっとどうかと思う」レベルの問題シーンが、ちょっとどうかと思うレベルで頻発する。
冒頭の西川貴教に対する香取慎吾の仕打ち。宇宙コールガールの片言と似非外国芝居。両性具有にボンテージ着せるセンス、、、
そしてそのどれもが、ここが問題なのだが、作中でほとんど問題視されない。特に西川貴教に対してなぞ、そのままエンディングまで一度も解消されるどころか触れられもせずに終わる。レイシスト丸出しの主人公の描写から始まるのに、成長も反省も描かれずだ。せめてラスト西川貴教の歌(なぜここだけミュージカル仕立なのかも疑問だが)を聴いて「上手いね」、雑でもいいからそのくらいのシーンは描けるだろう。
一応説明しておくが、別に差別的なシーン自体がダメだと言っているわけではない。むしろコメディはレイシズムを「笑い」によって可視化し相対化する機能がある。俺自身そういう笑い(サシャ・バロン・コーエンとか)は大好きである。たとえ作中で触れられなくても、差別と闘う姿勢を描くコメディは沢山ある。弱者に寄り添い、しかもそれを笑いに変換するからコメディは美しい。
しかし、『ギャラクシー街道』にそういった姿勢はなかった。意味もメッセージ性も客観性もなく、ただ自覚のない差別があった。それは笑うには醜過ぎた。
え、もしかして「新宿」ってそういうこと?そういう風刺なのか?だとしたら自分の不明を謝罪する。させてくれ。
まだパロディについても、非常に雑である。まあ、これに関しては俺の好きな分野だから余計に目に付いたことは否めないが。
特に、ネタは少し面白かった故に残念だったのが小栗旬まわり。
ハトヤ隊員だからウルトラマンかと思いきや彼女のマンモ隊員出てきたらセブンじゃん。で、なんなんだよキャプテンソックスって。ウルトラマンじゃないのかよ。しかもビジュアルはスペクトルマンじゃん。あと細かいこと言うけど、その制服だと平成ウルトラマンだからな。
第一、この世界観でなんでウルトラマンパロディなんだよ。宇宙すら関係ねえじゃん。
言葉乱れちゃったけど、そもそもこの企画自体が『銀河ヒッチハイクガイド』とか『スタートレック』とか『宇宙家族ロビンソン』とかあとオチは『ソラリス』のパロディなわけで、そういう作品でパロディの扱い方が雑、というのは姿勢として非常に敬意を欠いたものだ。ビジュアル面でも、いわゆる「レトロフューチャー」感を出したかったのだろうワープロ出したり60年代アイテム置いていたりだが、それも世界観の説明になっていないからそもそも「小道具」にすらなっていない。ただ「そういう作品で置いていたから置いた」だけだ。まったくもって雑この上ない。
あと下品なだけの下ネタとかテレビ局マネー過ぎる制作体制とか、もう本当「コメディってこういうもんでしょ」というマイナスのイメージ通りでウンザリする。今後地上波で放映されたりBlu-ray出るとき宣伝されたりすると思うと、正直コメディに携わるものとして「やめてくれ」としか思えない。観た人がコメディが嫌いになるコメディだと、鑑賞後暗澹たる気持になった。
なんでこんなことになってしまったのだろう。数少ない日本の現役喜劇作家として、三谷幸喜は尊敬している。尊敬している故に、理解できない。
そこで、考え続けたあげく、一つの結論を出した。こうでも考えなければ、俺は『ギャラクシー街道』を納得できない。
断言する。三谷幸喜は、やる気がなかった。
だから駄作なのだ。
理由はある。
まず三谷幸喜自身、「前作の清洲会議の時代考証が大変だったので、真逆のことを」「頭の中だけで作った」という趣旨の発言をしている。考証をしてない分、ノリと雰囲気で作れてしまったのではないだろうか。「宇宙だから」で済ませられるのだから、楽なものだ。シチュエーションコメディは、パズルのように幾つもの要素が組み合わさって笑いを産む。それを「宇宙だから」と済ませているコメディが、手抜きでなくなんなのだ。
また、そう考えれば数々の「配慮の足りなさ」もある程度理解できる。気を使わないと差別的なことを書いちゃう、というのもどうかと思うが、あり得る話だ。
また、これが最大の理由だが、クライマックスで明らかに三谷幸喜は手を抜いているシーンがある。
小栗旬が、前述の憎っくきキャプテンソックスに変身して、遠藤憲一が産んだ卵を拾おうとするシーン。ソックスが何度も失敗してそれに周りがツッコむのだが、そのセリフを三谷幸喜は「書いていない」。クライマックスの盛り上がるシーンのセリフを脚本家が「書いていない」のだ。これは三谷幸喜がインタビューで名言している。
「映像を見ながら別撮りして、好きなように罵声を浴びせた」
これは余りに酷いと思う。コメディの作り方としては確かにこういう生っぽい方法もあるがそれは小規模なシーンでやるべきことで、大仕掛けのシーンに対するツッコミセリフを書かないのは脚本家の責任逃れだ。それが結果として笑えるものならディレクションの妙、とも言えるが結果として笑えない。つまりディレクションも失敗している。
また、そんな雑な作りでも、三谷幸喜に意見を言える人はいなかったんだと思う。というか、誰も全体像を知らなかったんじゃないかと思う。三谷幸喜の「頭の中だけで」作られたもの、しかもダブルスタンダードに支えられ、群像劇的な描き方だから俳優も自分のシーン以外は読まなくても芝居出来てしまう。上に引用したのと同じインタビューで、綾瀬はるかが
「あれ?『ギャラクシー街道』てミュージカルじゃないの?」という発言をしているが、これがもはや綾瀬はるかのいつものボンヤリ発言には聞こえないのである。
だから、結論としては悲しいかな「三谷幸喜はやる気がなかった」というものになる。本気で作った失敗作なら観る価値はあるし学ぶべきこともあるが、そのやる気もないなら観なくていいと思う。
ただ、「本気で作れ」という反面教師には、なった。